マイファニーウィークエンド

ゲームの感想とか、哲学の話とか

ソシャゲの課金システムとの向き合い方について

 ポケマスを始めて気が付けばもう100日が過ぎてしまったらしいです。そして前回の記事からもものすごく時間が空いてしまっているようです。文章を書くリハビリも兼ねて、この100日でなんとなく固まってきた自分の「課金」に対する姿勢のようなものをまとめてみようと思います*1

気づけばはや100日 時の流れは早い


※本稿は、自分自身の考えを整理し、自らへ誓いを立ることを意図して書かれたものであり、他者に対して課金を促したり、或いは非難したりする意図はありません。

 

 いきなりですが、自分はソシャゲなどの「ガチャ」のシステムがあまり好きではありません。理由はいくつかありますが、特に大きいものは、コンテンツそのものの魅力よりもガチャというシステムによって射倖心を煽ることで課金へと誘導するというモデルが不健全に感じられる点と、課金したからといって望むものが得られるとは限らない点です。ソシャゲのガチャと似たようなものとしてはTCGのランダム封入のパックなどもありますが、あちらは(一応建前上は)トレーディングカードゲームとして、友人と交換する楽しさを生むことを意図してランダム封入という制度をとっているということや、(公式が直接に用意しているわけではないにせよ)カードショップなどで欲しいカードを直接入手する機会が存在していることなどの点が相違点として挙げられ、自分としては抵抗感は比較的低いです*2。また、別の点にも触れておくと、TCGやランダム封入のキャラグッズなどについて言われることですが、ランダム封入だからこそ、必ずしも人気キャラとは言い難いキャラのグッズも出すことができる(ランダム封入でなければ人気キャラのものばかりが売れてしまう)という話についてはソシャゲのガチャでも同様のことが言える部分があるように思われます*3

 先ほど挙げた2つの点のうち、後者の点については、近年では多くのゲームにおいていわゆる「天井」のシステムが導入されていることから、ある程度その問題は解消されているように思います。しかしながら、その額が適正かどうかは議論の余地が大いにあると思われます。例えば、ポケマスにおける天井を約36,000ダイヤと考えたとき、通常のダイヤがおおよそ1円/ダイヤであることを考えると、1天井にかかる課金額は約36,000円と言えます。この金額をどう捉えるかはもちろん人それぞれですが、僕個人としては、1ユニットに対して36,000円という額は釣り合わないと考えます。言うまでもなく、ポケマスは普段から無償ダイヤを大量に配布してくれており、また、EXデイリーダイヤパックなどは約0.16円/ダイヤと破格のコスパであるため、1天井に必ずしも36,000円が要求されるわけではありません。また、天井まで回したとしても、手に入るのは天井で入手したユニットだけではありませんし、そもそも天井までに引く可能性も計算すべきです。ここで言いたいことは、自分がどのような形での課金を許容するかというラインを見つめる上で、「天井までのダイヤを全て通常のダイヤで購入する」という形での課金は許容できないということです。

 さて、ここまでは課金に対して否定的なことばかり述べてきましたが、一方で全く課金しないことはそれはそれで不健全だとも考えます。もちろん、基本プレイ無料のゲームとして運営されており、無課金でも十分に遊べるようなサービスとして提供されている以上、プレイヤーに課金をする「義務」は当然ありません。基本プレイが無料であることや無課金でも遊べるようになっていることは新規参入の敷居を下げ、プレイヤー人口の拡大をもたらし得ますから、コミュニティとしても、「課金は義務である」という圧をかけることは好ましいとは言い難いでしょう。運営側としても、無課金プレイヤーが一定以上生まれることは承知の上でそのようなシステムを作っているのでしょうから。しかしながら、そうは言っても商売である以上はなんらかの形で利益を上げなければコンテンツを維持することは困難であるのもまた当然です。なんらかのコンテンツが思うように利益が上げられずサービス終了になってしまった際に、一切運営側の利益に寄与しなかったユーザーがその終了に憤ることは少々ムシのいい話であるように思われます。従って、そのコンテンツから得られる楽しみを大いに享受し、そして特にそのコンテンツの末永い存続を願うのならば、無理のない範囲である程度運営側の利益に貢献することは必要になってくるように思われます*4。少なくとも、自分はポケモンマスターズEXにはいつまでもサービスを続けてほしいですし、課金するに値するだけの楽しみを受け取っていると感じていますから、ある程度は課金することが「スジ」であると考えています。

 では、どのような形で課金することが自分の価値観にとって最も好ましいのでしょうか。例えば、ポケマス以外のゲームであれば、買い切りの形でスキンやアイテムの購入ができたり、対人戦における勝利で得られる報酬をグレードアップできたりします。このような形での課金は、ガチャに対する課金でもないので、(その額が適正だと自分が感じるのならば)最も抵抗がありません。しかし残念なことにポケマスにはそのようなシステムは基本的にはなく、概ねダイヤへの課金がほとんどです(育成アイテムなどとセットのものもありますが)。であれば、基本的にどれもダイヤへの課金という点で課金の「質」が同じであれば、あとは純粋にどの程度の額の課金が最も好ましいかという「量」の問題になります。どの程度の課金額が望ましいのかを考える上で、その他の商品やサービスなどと比較することは十分有力な手のひとつでしょう。例えば、カービィハンターズシリーズのように、基本プレイ無料だがコンテンツとしては実質買い切りのゲームのようにはっきりとした区切りが存在するタイプのゲームならば、それとコンテンツの量が同等の買い切りのゲームの金額と同等前後の額が妥当であると考えます。しかしながら、ポケマスなどのソシャゲのように終わりのないゲームであれば、他の買い切りのゲームとの単純な比較は困難です。運営側にとってどの程度の利益があれば持続可能性が確保されるのかという観点も必要なのですが、ここでは自分にとってどの程度の金額が妥当かという観点で話を進めます。ここからは特に自分自身の直感に基づく話に過ぎないのですが、1ヶ月あたり1,000円前後が自分にとって最も「しっくりくる」額であるように思われます。例えば、ポケットモンスターシリーズの本編タイトルは1本7,000円弱であり、それが1、2年に一度発売されると考えれば、それほどかけ離れた額にはなっていません*5ビデオゲームは比較的にコスパの良い趣味であることを考慮するのならば、例えばポケカなどなら約1.5ヶ月に一度の新弾が発売されるタイミングで汎用カードなどを3,000円前後購入すると考えれば、これもまた額としては近いものとなります。

 従って、以上のように考え、自分はポケマスの課金について、以下の方針を立てています。

 1.基本的にはEXデイリーダイヤパック(約735円/月)のみに課金する。

 2.マスターフェス開催時などの期間限定のダイヤもしばしば購入する。

 3.心から感動し、運営への感謝の気持ちに溢れた場合*6には、そのお礼及び感動への対価として、そして今後より素晴らしいコンテンツが実装されることを期待しての投資として、EXデイリーダイヤパックSなどへも課金する。ただし、EXデイリーダイヤパックS(0.425円/ダイヤ)よりもコスパの悪い課金は行わない。

 4.どれほど欲しいバディーズがいても、バディーズサーチを回すことを目的とした課金は行わない。

 5.課金によって入手した有償ダイヤは、無償ダイヤでも回せるバディーズサーチには投入しない。すなわち、ステップアップ・1日1回割引・ポケマスデー限定・選べる系などの、有償ダイヤをより有意義に活用できるバディーズサーチにのみ投入する。

 いかんせんまだ夏からアニバーサリーに向けての怒涛の実装ペースを経験していないこともあり、いつまでこの方針を維持できるのかは分かりませんが、自分にとって最も恐ろしいことは、段々と感覚が麻痺してしまって、健全ではないお金の使い方をしてしまうこと、そして自分が賛同できないビジネスモデルに加担してしまうことです。ここでこうして明文化しておくことで自分への誓いとします。

 一切下書きもしないで考えていることをそのままに書き下したので、後々訂正することもあるかもしれません(訂正の際には訂正されたことがわかるように書き添えます)。ご了承ください。

*1:本来「課金」という語は「運営側がユーザーに対して何らかの料金を課すこと」を指す言葉ですが、本稿では広く一般に普及している意味として、「ユーザーが運営側に料金を支払うこと」を課金と表現します。

*2:とはいえTCGについてもここ最近のポケカ公式のやり口などには少々思うところがないではないですが……。

*3:しつこいようですが、ここで議論されているのは、「自分が納得できるかどうか」についてです。

*4:もちろん、「無理のない範囲で」とあるように、ユーザー自身の経済的な事情によってもその度合いは大きく変化すると考えます。

*5:繰り返しになりますが、運営側の視点に立つ場合には、コンシューマーゲームソーシャルゲームは収益構造が全く違うので単純に比較できるわけではありません。あくまで自分の中での金銭感覚のバランスを検討しているだけです。

*6:直近の例で言えば、セキ・カイ・ミナキの実装、そしてそれらに伴うイベントシナリオなど。これらは本当に良かったです。本当にありがとうポケモンマスターズEX……。

デュエプレとかRRRとかエクバとか【今週のあれこれ】

 いちいち個別記事を立てるのも面倒なのでまとめて記事にしてしまおうのコーナー。飽きなければ続く。

 

デュエプレを始めた話

 某配信者のマスターデュエル配信を見ていたらマスターデュエルをプレイしたくなったのだけれど、やっていない期間が長すぎて全てを忘れていたので(タダでさえ1ヶ月くらいしか遊んでいなかったのに)挫折して代わりに(?)デュエル・マスターズプレイスを始めた。自分が遊んでいた時期がちょうど覚醒編〜エピソード1ごろで、母親に買ってもらった引退品セットか何かでそれ以前のカードも触ったことがあったし、何よりそのころにデッキ開発部の記事をひたすらに読み込んでいたために、まさに今のデュエプレはプレイしていてもパックを剥いていてもとても楽しい環境であるように思う。とは言え当時は全然環境のカードなども知らず、弟や小・中学校の友達とガバガバのルールで遊んでいただけだったが。

 個人的にパックから出てきて特に懐かしかった、嬉しかったのはこのあたり。

当時一番好きで使っていたサイキック・クリーチャー。無敵城シルヴァー・グローリーも組み合わせて弟を泣かせていた記憶がある

当時一番(というか唯一?)使っていたサイキック・スーパー・クリーチャー。デュエプレではお嬢様キャラが付与されたらしい。ヨーデル・ワイスの「あの鐘を鳴らすのはオマエサマれひ!」というフレーバーテキストも何だか面白くて弟とよく笑い合っていた

最終的に一番使っていたのは光・水混合デッキだったが、最初は火文明のスターターで始めた気がする。それとは違うけれど、これは映画か何かの記念で出たスターターのカードだったかな? 今ではすっかり逆張りになってしまったが、当時はまだXXやNEXも大好きな順張りキッズだった

 カードがどれもこれも懐かしいというのは確かなのだけれど、ことデュエプレに関して言うのなら、キャラデザも全体的に魅力的だと思う。本家のデュエル・マスターズの漫画やアニメのキャラも登場しており(当時どちらも少ししか触れていなかったので詳しくはわからない)、それらのキャラクターも当然魅力的なのだが(個人的には黄昏ミミさんが好き)、おそらくデュエプレオリジナルと思われるキャラクターも非常に気合の入ったデザインになっているように思う。

個人的な最推しは光の守護者のエレナさん(写真右)。金髪なので。ただ、ナビゲートキャラであるルピコ(写真左)もめちゃくちゃ可愛くて好き。リコーダーがいい味出してる

エレナさんのカードは最初のログボ的なやつのチケットで引けた。スーパー・スパークとかの系譜のカードらしく、可愛い上に強力なので嬉しい(本当はあと3枚欲しい)

闇の守護者のルカも好き。こんなん嫌いなオタクいないでしょ(偏見)

守護者の部下の番人も可愛い。この辺のモブキャラもめちゃくちゃ可愛いので遊んでいて楽しい

 このあたりのキャラクターはソロプレイのストーリーモードで出現するのだけれど、このストーリーモードがなかなかどうして侮れない。というか普通に面白い。各話の引きも上手くてストーリーモードだけでもかなり楽しめる。現状カード資産がそれほどないのもあってほぼほぼストーリーモードしかプレイしていない。とはいえそろそろ低予算で組めるアグロデッキだけでは飽きてきたので他のデッキも組んで対人戦にももっと挑戦したい。しかし本格的に強いデッキとかは小学生当時でも別に組んでいなかったので何から手をつければいいのかよくわからない。まあのんびりやっていこうと思う。

 

 

RRRを観た話

 ずーっとTwitterで話題にはなっていたものの特に観るつもりはなかったのだけれど、年明けに「暗号学園のいろは」で紹介されていたので流石に気になって観に行った(「暗号学園のいろは」は個人的に最近激推ししてる作品なのだけれど、そのあたりはまた別記事にまとめたい)。大まかなあらすじ(「大まかな粗筋」って重複表現か?)は聞いていたし実際その通りではあったのだけれど、ド王道の真ッ正面をブチ抜くとても魅力的な映画だった。それなりにネタバレも交えつつ感想をまとめておく。

 個人的に最も構成が上手いなと思ったのはヘイト管理(?)の巧妙さだ。この作品の核は本来は対立的な立場にあるはずのふたりが仲良くなってしまうことにあるのだが、その対立を描く上で、この作品は、あえて両者を平等に並行して描写しているわけではない。前半ではビームの物語が中心的に描かれ、ラーマにも何か事情があるということは匂わされるものの、核心的な部分は何も触れられないままに進む。ラーマもまた親友が自らの確保対象であることに苦悩し、葛藤するのだけれど、観客にはその理由が明かされない。従って、第一部を観ている間の観客はラーマに一定程度同情しつつも基本的にはビームの肩を持つような見方へと誘導される。そしてそれが第二部を通して少しずつラーマの過去が明かされる中で逆の立場へと揺り動かされる。ビームがシータから話を聞くシーンにおいて、ビームだけでなく観客に対してもラーマの過去の全容が開示され、最終盤へと流れ込む。この監督の手のひらの上で転がされる感覚は非常に心地よかった。 

 筋書きの魅力もさることながら、映像の迫力もこの作品の大きな魅力のひとつだろう。アクションシーンはどこもかしこもド派手で観ていて非常に爽快だった。しかしその中にも、肩車での大立ち回りなど、どこか抜けているというか絶妙に滑稽味のある絵面もあり、観ていて飽きを感じさせない作りになっていたと思う。とんでもない予算と期間がかけられているんじゃなかろうか。

 そもそも自分はこれが初めてのいわゆるインド映画だった。インド映画については非常に長いということと、しょっちゅう(何の脈絡もなく)踊るということは知っていたので、いつ踊り出すのかとそわそわしながら観ていたのだけれど、実際に暗号学園のいろはでも登場するナートゥが踊られるシーンは全然唐突でもなんでもなく、しっかり踊る文脈で踊られていたので、むしろその丁寧に踊りに向かう流れがつくられるさまが非常に面白かった。歌に関しては割と唐突に歌うシーンも多かったように思う。個人的にはエンドロールの踊りで「みなさんご存知」とでも言うようなノリで背景に代わる代わる登場したおじさんおばさんたちが絶妙にシュールで好きだった。インド映画のお約束なのだろうか?

 今の研究のテーマとして、行為とそれに対応する罰や報酬というようなことを日常的に考えているのだけれど、その点において総督やその妻、或いは部下や兵士たちがビームやラーマらに殺されるに値する存在だったのかという点については是非もっと考えたいところではある。当時の社会背景を勘案するならば、どう考えても「殺らなきゃ殺られる」状況だったので、そんな生温いことは言ってられないのだろうなとは思う。一方で、倫理をどこまで社会背景によって柔軟に曲げるべきかは議論が必要だろう。そこまで考えると少し倫理学に寄りすぎて専門の外に出てしまうのだが……。そのあたりで個人的に引っかかった点としては、ラーマがビームを死刑場から逃すことを決意するシーンで、「ビームの歌は人々を勇気づけ、武器に変える」というような趣旨の発言をしていたように記憶しているのだけれど、自分はこれを聞いててっきり「ラーマは火器を故郷に持ち帰ることはやめて平和に抵抗する方向に進むのかな?」と思ったのだが、普通に英国の兵と命の取り合いを進めるし、故郷にも火器を持ち帰っていたのでよくわからなくなった。もちろんそんな平和ボケした思想でこの大英帝国に対抗できるとは思えないのだけれど、じゃああのシーンのラーマの発言の意図はどのようなものだったのだろう。この点に関しては自分の誤読の可能性も高そうなので、他の方の解釈も聞いてみたいところだ。

 

エクストラバトルの日に出場した話(1週間ぶり2回目)

 折角エクバに出るのならいっぱい出場してプロモパックをいっぱいもらいたいなと思ったので2回目のエクバに行ってきた。家を出るついでに大学の授業料の振り込みにも行こうと思って郵便局でお金を引き出して銀行に持っていったら窓口が開いておらず、時間もなかったため大金を持ったまま会場近くまで移動してそちらの銀行で振り込みをする羽目になった。ただでさえエクストラバトルの日で緊張するのに普段は絶対に持ち歩かない大金まで持っていたために頭がおかしくなりそうだった。

 結果を先に言えば今回も2勝2敗。悔しい負けもあったが、勝ち試合の動きが前回よりは良かったので割と満足寄りである。なお、デッキは前回と全く同じだった。ところどころ課題も見えてきているので改造したい気持ちもあるのだけれど、なかなか上手い改造案が思いつかないのが正直なところである。後述する今回の結果を踏まえると、VSTARやTAG TEAMのHP280がなかなか遠い印象だったので、何かしらの火力アップアイテム(こだわりベルトあたりが有力候補か)が欲しいように感じた。世のパルキアデッキはどうやっているのか是非参考にしたいので調べてみようと思う。

 

1戦目 vsレジドラゴVSTAR 先攻×(4−0)

 前回のエクストラバトルの日ではついぞ当たることのなかった今をときめくtier1デッキのレジドラゴと満を持しての対決。先2でレジドラゴVをスカイフィールド込みのあくうのうねりで倒すところまでは良かったのだが、そこからNとダストオキシンでストップしてしまい、そのまま押し切られた。エクバが始まった当時は「話題になっているだけで大して強くない」という声が優勢だった気がするのだけれど、いざ対峙するととてもそうとは思えないくらいに強い。こちらの動きにミスがあったとするなら、先2でパルキアではなくはくばバドレックスで攻め、返しのレジドラゴVSTARをスカイフィールド込みのあくうのうねりで取る流れが理想だったような気がする。とは言え向こうはガンガン320点を出してくるのに対して、こちらは向こうがベンチを絞っていたこともあって280点が非常に遠く、火力不足を痛感させられた。世のパルキアはレジドラゴとどうやって戦っているのだろう? 裏工作ではなくグッズで回すタイプのパルキアならばダストオキシン下でもある程度動けるのかもしれない。ディストーションならばこちらの負担はそれほど大きくないし。

2戦目 ルギアVSTAR 先攻○(0−6)

 相手が後攻1ターン目にルギアVを1枚しか置けなかったため、先攻2ターン目にグズマでルギアVをダイランスで取り、そのまま押し切った。ポケモンVのHPラインを出すためのハードルが圧倒的に低いはくばバドレックスの良いところが存分に出た試合であったように思う。このデッキは2−2−2のサイドプランが非常に取りやすいデッキであり、それを狙うのが基本なのだということがよくわかったのは非常にいい勉強になった。

3戦目 カビゴン&ラクライLO 後攻×(5−6)

 2戦目のときに近くの卓でプレイされていたのでなんとなくカビゴンLOだということはわかっていたのだけれど、いかんせん対LOの経験が浅く、軽率にベンチに出したポケモンを呼ばれ続けて詰み。カプ・テテフGXスタートだったのは確かに不運だったが、プレイングでまだ巻き返せたように思う。あなぬけのヒモの使いどころやスターポータルの使いどころをもっと考えるべきだった。

4戦目 ミライドンex&クワガノンV&そらをとぶピカチュウVMAX 先攻○(0−1)

 お相手の方に3回ほど引き直しがあったため初動が安定したのが幸いし、後1からパラライズボルトを連打されたもののダイランスを連打して2−2−2で取り切った。グッズロックをされていても水ポケモンにタッチできるカイの有能さが光る試合だった。極力パルキアは出さないではくばバドレックスの高火力・高耐久を押し付けられたのが良かった。中盤にポケモンがはくばバドレックスだけになるシーンがあり、博士の研究を打つか我慢するかで悩んだところがあったが、あの場面はライチュウVでワンパンされていたので博士の研究で進むべきシーンだったように思う。ミツルは後1の切り返しで使う印象が強かったのだけれど、今回の試合では相手がグッズロックを解除したタイミングでたねポケモンを持ってきつついきなり進化させることで最後の詰め筋として大活躍してくれた。対グッズロックデッキの場合は単純にグッズで進化ポケモンを持って来れない場合にも有用なので、ミツルのポテンシャルは想像以上に高いということに気付かされた。今回で一番いい勝負だったと思う。

 今回のエクストラバトルの日も概ね参加者の方々に恵まれ、楽しくプレイすることができた。たまたま前回のエクストラバトルの日にも一緒に参加されてた方がいらっしゃったことも緊張がほぐれるひとつの要因になったように思う。今回は元々友人と参加する予定だったのだけれど、その友人が都合により来られなくなってしまったため、今度こそは誰かしらの知り合いと参加したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

俺「さぁ〜〜〜て今回のプロモパックは何かな〜〜〜?? 今度こそかるいしとかが出てくれたら嬉しいねんけどな〜〜〜〜」ペリペリ

ンネェ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!

「エクストラバトルの日」初参加の記録

何ごとにおいても、初めてのときの瑞々しい感想を記録として残しておくことは意義があることだと思うので、備忘録として残します。 昨日(2023/02/03)に、大阪日本橋の某所にて人生初のエクストラバトルの日に参加してきました。 もともと1年前のエクストラバトルの日にも参加したかったのですが(参加賞のマオ&スイレンが可愛かったので)、そのときはなかなかデッキを組む予算も時間もなく断念。今回も「エクバ出たいな~」と口では(ツイートでは)言いつつ、頭の中では「結局去年と同じような感じで流れちゃうかな~」と思ってました。ある友人がぐいぐいと引っ張ってくれたおかげであれよあれよという間にデッキも完成したので、流石にこれは参加せねばなるまいと参加してきた形ですね(本当にありがとうございます)。本当は1月から参加する予定だったのですが、某感染症や某論文の発表などもあり結局2月になってしまいました。今回は、全体のふんわりした感想と、各対戦の反省点とかを書いていけたらいいかなという感じですね。

 

当日、参加するまで

その日に日本橋でエクストラバトルの日は3回開催される予定だったので、とりあえず早いやつに参加申し込みをして、もしも抽選で落ちたら次のやつに行こうと考えていたのですが、思わぬ足止めを受けてしまいました。ちょうどその日がGUILTY GEAR STRIVEのネットワークテスト(β版)のリリース日だったんですね。GGSTは数ある格闘ゲームのなかでも傑出した個性的なグラフィック表現がとても魅力的で、以前からめちゃくちゃ遊びたかったタイトルでした(なんならXboxを購入した理由のかなり大きい部分を占めてます)。ギルティギアシリーズはGUILTY GEAR XX ΛCORE PLUS RをSwitch版でちょっと遊んだことがあって、ブリジットがめちゃくちゃ好みだったのでGGSTに参戦したのもめちゃくちゃ嬉しかったですね。腰のクソデカ手錠は流石にオミットされたのが少し残念ですが(実は因習に囚われたブリジットが自由になったことを象徴してるとかそういう深い意味があったりするんですかね? ストーリーはまだまだ詳しくないです)(追記:書きながら「以前「手錠も続投してるの偉いな~」って言った記憶あるんだけどなー」と思ってたので確認したら普通にクソデカ手錠ついてました。ごめんなさい)。

GGST版ブリジット 本当にありがとう

ちょっとだけ触って昼前には出るか~と思ったらなかなかやめられず、気づけばもうその日最後の回のエントリー開始時刻くらいになっていたので慌てて準備をして家を出ました。格闘ゲームのコンボの練習はすごく時間が溶ける上にストレスがめちゃくちゃ貯まるのでメンタルが弱い自分とかにはよくないですね。

結局エントリー締切の5分前くらいに到着して慌てて参加申し込みを済ませました。店舗大会自体がかなり久しぶり(確か最後に参加したのがフュージョンアーツの直後くらい)だったこともあり、めちゃくちゃ緊張して手続きにバタバタしてしまいました。プレイヤーズクラブのログインもうまくいかなくてアカウント作り直しましたしね。デッキ登録とかも必要な大会だったら詰んでたのでそのへんの情報は事前にしっかり確認しておくべきだったと猛省しています。お店はかなり賑わっていて、エクバについても16人の参加枠に25人の申込みがあり、抽選になっていました。

 

使用デッキ

友人に提案してもらったリストほぼそのままなので詳しいところは伏せますが、うらこうさく型のはくばパルキアを持っていきました。一応スタンではくばバドレックスは少し握ったことがあったので、それをベースに予算を抑えつつ組めるということでの選択です。

組めたタイミングで何度かひとり回しで試運転はしていたのですが、1ヶ月くらい触っていなかったこともあり、当日試合中にもデッキの中身がかなり頭の中であやふやでした。準備不足すぎる……。抽選に落ちて参加できていない方もいらっしゃるので、もっとしっかりしないと失礼だったなと反省しています。

 

大会内容・結果

結果から先に言えば2勝2敗でした。相手の方のミスもあったとは言え2勝できたのは嬉しかったですね。しかし負け試合の反省点も山積みなので手放しには喜べませんが……。

店舗大会は小学生のころに参加したデュエルマスターズの大会の記憶が微妙にトラウマになっていて未だに怖かったりするのですが、幸い今回は対戦相手の方はみなさん気さくで優しい方ばかりでした。

 

初戦 VSマッドパーティ 先攻〇

サイド4-4でお相手の場にポケモンがいなくなって勝ちました。立ち上がりの展開がなかなか思うように行かず、先2でも殴れなかったのでかなり苦しい展開を覚悟していたのですが、後2でお相手の方がポケモンホルビー2体までしか用意できていなかったため、スターポータルからのげっこうしゅりけんで両取りしました。

かなり早くに決着がついたため時間を持て余しかけたのですが、お相手の方が非常に気さくな方だったため気まずい時間を過ごさずに済みました。おかげで緊張もだいぶほぐれましたね。お隣の卓でダストオキシンでスターアルケミーを止められるかが問題となっていて、自分も最近twitterで見かけていたのにすっかり忘れちゃっていたので勉強になりました。とはいえ覚えていても試合の緊張感の中だと全部吹っ飛んじゃいそうで怖いですね。

 

2戦目 VSルギア 先攻×

サイド6-0、完敗でした。先1でメッソンとはくばバドレックスを1枚ずつしか展開できず死を覚悟したのですが、幸いにもアーケオスが1体しか立たず、後1ジージーエンドだけは回避できました。しかし、パルキアVが2枚ともサイドに落ちており、こだわりベルトも入っていなかったためにルギアとアーゴヨン&アクジキングの280点がなかなか遠く、押し切られてしまいました。試合後の感想戦でアドバイスをもらったのですが、アーケオスが1体しか立っていなかったので早めにアーケオスを取るべきでした。相手の盤面にアーゴヨン&アクジキングがいたので、アーケオスと合わせて1-2-3のサイドプランも狙えましたしね。むしろなぜ試合中に思いつけなかったのか……。

 

3戦目 VSメロエッタゲノセクト 後攻〇

サイドは忘れちゃいました(4-3とか4-4とかだったかな)が、お相手の投了でした。お相手の方いわく、序盤にスペシャルチャージを切りすぎたため、エネルギーが盤面になかなか集まらなかったとのことでした。メンテナンスが入っていたのが印象に残っています(初めて見るカードでした)。

こちらとしてはげっこうしゅりけんなどでメロエッタを複数取りつつ裏のゲノセクトを狩りつつ雪道貼ってNやツツジを撃つことができればという展開でしたが、げっこうしゅりけんがかなり狙えそうな場面であと1~2枚届かなかったのでもう少しやりようはあった気がしています。雪道Nも一度は決めたのですが、お相手のサイドがまだ4枚とかだったのですぐに雪道も貼り替えられてしまいました。もう少し我慢してもよかったかもしれません。

 

終戦 VSトゲキッスVMAX単 後攻×

サイド4-2でこちらの投了でした。序盤から手札がドン詰まるかなり苦しい展開で、お相手もベンチに1体しか出さずに耐久してきたために火力が出せずかなり苦しかったです。とは言え中盤以降はそれなりに回りだしていたので十分に勝ちも狙えたように思います。中終盤にNやツツジを連打して手札をひたすら流せていたのも悪くない動きでした。

最大のミスはパルキアVSTARが一枚サイド落ちしていたのに最初にパルキアVSTARで殴り始めて早々に落とされてしまったことだったように思います。はくばバドレックスだと火力を出すためにはエネルギー消費が激しいので、パルキアVのハイドロブレイクをもう少し早くから使うべきでした。結局スターポータルを切ることができず、エネルギーが足りなくなって、パルキアVも連続でワザを使えないためにギリギリ届きませんでした。また、うらこうさくのインテレオンなども2枚ともサイドに落ちていたのですが、それに気づいていたのにカイで持ってこようとしてしまったり、うらこうさく型の練度がとにかく足らなかったなぁという印象も強いです。お相手の方はどうしても詰ませるタイプのデッキで投了させてばかりで申し訳ないと心苦しそうな顔をされていましたが、個人的にはギリギリの勝負が味わえたので今回の大会で一番楽しい対戦でした。

 

対戦を終えて

プロモパックを開けてもっといろいろなエクストラのデッキを組んでみたかったのでとりあえず1勝したいという思いでのぞみましたが、結果としては2勝2敗でした。負け試合も勝ち筋はいくらでもある試合だったので、反省点はありますし悔しくもありますが、もっと頑張ってみたいなと思える大会でした(今のデッキでもかなりやれそうですしね)。今をときめくtier1のこくばバドレックスやレジドラゴと対戦できなかったのは少し残念でしたが(むしろラッキーかもしれませんが)、今後何度か参加するうちに対戦できることもあるかもしれませんね。目標としてはあと4回くらいは参加したいですね。参加が抽選になる可能性もあるので少し難しいかもしれませんが、友人と一緒に参加するのも楽しいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

~大会終了後(一部脚色があります)~

トゲキッス使いの方「とりあえずお互いプロモパックはもらえたので良かったですよね~。あ、もういっそ今開けちゃいましょうか」ビリビリ

僕「そうですよね~。自分もこれが欲しくて参加しに来たので」ビリビリ

トゲキッス使いの方「ありがたいことに、いままでデデンネとかは引いていないんですよね~」

僕「確かに、あんまりこういうことを言うのは良くないですけど、タマタマとかだとちょっとガックシ来ちゃいますよね 笑」

トゲキッス使いの方「バトコンとかだといくらあってもいいんですけどね~。あっ、僕はサイレントラボでした! そちらはどうでした?」

僕「僕はかるいしが一番欲しいんですよね~。かるいし来いかるいし来い!!」ピラッ

 

オーリムと「彼女」の同一性についての考察、及びそこから考えられるひとつの可能性について

 先日、某所にレジェンズアルセウスのノボリとBWのノボリの同一性についての記事を載せてもらったのだが、直後に発売された『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』において非常にタイムリーなネタが供給されたので記憶が薄れないうちに簡単にまとめようと思う*1。そのため、本稿ではポケモンSV最終盤の致命的なネタバレが含まれている。また、本稿の内容は上述の記事を未読でも特に問題のない内容となっており、筆者が個人的に書いて公開したものであって、その内容は所属団体とは一切無関係である*2。(2022年12月21日追記)なお、(言うまでもないことを繰り返すようで恐縮だが)本稿の見解は筆者の個人的なものであり、他の考え方を否定するものではない。(追記ここまで)

 

はじめに —本稿で述べる同一性について—

 さて、前置きが長くなっても仕方がないので単刀直入に本題に入るが、本稿で論じたいのはオーリムオーリムAIとの同一性についてである*3ポケモンSV最終盤において、エリアゼロ最深部のゼロラボに到達した主人公は待ち受けていたオーリムから衝撃的な事実を告げられる。彼らがオーリムだと信じていたのは実はオーリムが作り上げたAIであり*4、オーリム自身は事故により死亡していたというのである。そして主人公はオーリムAIからオーリムが開発したタイムマシンの停止を依頼される。

 このとき、オーリムとオーリムAIは同一と言えるだろうか。少なくとも作中においてはその答えはNOである。オーリムAI自身やペパーはオーリムAIをオーリムの偽物として扱っている*5

自らを「本物のオーリム博士ではない」と言うオーリムAI(手前)  (奥の美少女は主人公)

「アイツ(オーリムAI)」を「偽物だった」と言うペパー(左)  (右の美少女は主人公)

そもそも、両者が同一でないからこそ「オーリムは実はオーリムAIだった」ということが衝撃の事実として成立する。プレイヤーの多くも彼女たちを同一であると見なすことはそうそうないだろう。しかし一方で、我々は彼女たちを同一の存在、あるいはそれと同程度には強い繋がりを持つ存在としてみなしている部分もまた存在するのではないだろうか。それについては後ほど詳しく述べるとして、まずはそもそもなぜ我々がオーリムとオーリムAIを同一の存在として認めないのかという点について考えてみよう。

 

オーリムAIはオーリムと何が違うのか? —両者の相違—

物理的な観点から

 まずわかりやすい点から言えば、オーリムは生物ではなくロボットである。その身体がどのように作られているのかは作中では明言されていないが、少なくともオーリムとは身体を構成するものの物理的な要素は異なるだろう*6。実際に、オーリムAIがぎこちない動きを見せたり発話に異常が発生したりしたシーンなどはオーリムAIの「ロボットらしさ」を表現することでオーリムAIがオーリムとは異なることを強調している演出であると言えるだろう。

発話行為に異常をきたしているオーリムAI。恐怖を覚えたプレイヤーも多いだろう(プレイ時は気づいていなかったが、ネモはまったく驚いていない。流石である)

仮にオーリムAIがある時点のオーリムの物理的な構成要素までも完全にコピーしていたとしても、両者の間に時空的連続性を確保することも困難である。なぜならば、オーリムAIはオーリムが自らの共同研究者として開発した存在であり、少なくともある時点において両者は同時に存在してしまっている

作中で明言されてはいないが、この「研究者」はオーリムAIを指すと考えられる

我々は同時に目の前にある二つのりんごを同一の、ただ一つの同じりんごだと考えないように、同時に存在しているオーリムAIとオーリムを同一だと考えることはできない。とはいえ、創作の世界においては肉体がすっかり機械に代わってしまっても元の人物とまったく同一であると認められることは珍しくない*7。後者の時空的連続性についての指摘は非常に重要であるのだが、その上で、また別の観点からも両者の相違について見てみよう。

心理的な観点から

 我々がオーリムAIとオーリムを同一ではないと考えるもうひとつの大きな理由は、心理的な部分についてである。そもそも、オーリムとオーリムAIは単純に考えが微妙に異なっている。古代の世界について強い興味関心を持っている点は同じだが、古代のポケモンによって現代のパルデア地方の生態系が乱されてしまうことを「自然のひとつの形」として問題視しないオーリムに対して、オーリムAIはそれを合理的ではないとしている*8

オーリムの考えを語るオーリムAI。実のところオーリムが生態系の破壊に対してどう考えていたのかはあまりわからない

オーリムAIの考えはオーリムとは異なっている

 

オーリム自身もオーリムAIが自身以上に合理的な思考をしていることに気づいているようである


冒頭で述べたようにオーリムAIがタイムマシンを止めてオーリムの夢を破壊するように求めてきたことは両者の決裂を最も鮮明に表している。また、オーリムAI自身も、特段「オーリム亡きいまでは私自身がオーリムなのだ」というようなことは主張していない。あくまでオーリムAIはオーリムの記憶と知識をベースに作られた独自の存在だということだろう*9。オーリムAIにとってもオーリムは自身とは異なる存在で、「かつてのワタシ」ですらないようである。オーリムAIの発言を見ても、オーリムAI自身についてのこととオーリムについてのことは厳密に分けて話している。記憶に関して言えば両者の間に心理的な意味での連続性も成り立たないということだ。また、前項でも述べたように、オーリムとオーリムAIはある時点において同時に存在しているのだから、両者の経験はまったく同じではあり得ない*10

 駆け足ではあるが、オーリムとオーリムAIの相違について述べた。そもそもオーリムAIはオーリムそのもの、オーリムと同一の存在を用意しようとして作られた存在ですらなく、それゆえにその相違も多々存在していたわけである。これではどう考えても両者はまったく別の存在なのではないか。しかし、本当にそうだろうか。次節では、それでもなお両者の間に見られる強い結びつきについて考えてみたい。

 

オーリムAIとオーリムは本当に同一でないのか? —両者の同一性—

 さて、前節において我々はオーリムAIとオーリムが同一でないということについて十分に確認した。しかしそれで終わってしまっては面白くない。ここからは、ある点においては我々は両者を同一視(混同)しているということ、あるいは同一ではないとしてもそれに匹敵するほどに強い結びつきがあるものとして見ているということについて、ふたつのシーンを例として挙げながら述べていきたい。

オーリムAIとオーリムの「混同」

 再三述べてきたように、我々は基本的にはオーリムとオーリムAIを同一の存在とは認めていない。これは作中の人物についても同様である。しかし、ペパーはオーリムAIの「気持ちは本物」であると発言している。

 

この発言は、オーリムがペパーのことを愛していたということを示唆するオーリムAIの発言を受けてのものである。

 

ペパーの成長を喜び、今までのことについて謝罪するような言葉を述べるオーリムAI(このシーンについては後ほどより詳しく述べる)

オーリムはペパーのことを愛していたと告げるオーリムAI

それらのオーリムAIの発言はプレイヤーの心を打つことを想定されて書かれたものである。しかし、なぜ我々はそれによって心を打たれる(あるいは心打たれると想定される)のだろうか。オーリムAI自身の言うようにオーリムAIはオリジナルの記憶・感情の情報を正確に保持しており、それゆえにその言葉に強い信憑性を感じるということは間違いない(ペパーの「気持ちは本物」という発言はこのことを指していると考えられる)。しかしながら、たとえばこのシーンにおけるオーリムAIが人間のような振る舞いをするロボットではなく、淡々とオーリムの記憶・感情を開示していたとしたらどうだろうか。もちろん演出次第では十分に感動的なシーンにはなり得るが、少なくとも実際のこのシーンとは印象が大きく異なっていただろう。その違いは何なのか。これらのシーンにおいて我々は、オーリムAIの発言を、同時に、オーリム自身によるものとしても受け取っているのではないだろうか。すなわち、我々はオーリムとオーリムAIが同一の存在ではないことを理解しつつも、両者を一定以上重ね見ている、同一視しているのではないだろうか。

 このことはオーリムAIとの別れの場面においても言える。主人公の手によって暴走を止められ、正気を取り戻したオーリムAIは、タイムマシンの完全停止のため、そして自身の夢を叶えるために古代の世界へと旅立つ。

古代の世界への旅を主人公たちに宣言するオーリムAI

このシーンも作中屈指の名シーンである。しかしながら、これもよくよく考えれば妙である。オーリムAIはオーリムAIであってオーリムでないとするのならば、オーリムAIが古代の世界に旅立つことはどのような意味を持つのだろうか。我々はこのシーンにおいて、オーリム自身が長年の夢を叶えたかのように感じてはいないだろうか。このこともまた、我々がオーリムAIとオーリムを同一視する視点を示唆している。

なぜ我々はオーリムAIとオーリムを同一視するのか

 前項において、我々がオーリムAIとオーリムとをある程度同一視している可能性が示された。しかし、前節で見たように我々は両者をまったく同一でないと考えているのにもかかわらずそのように同一視しているというのはやはり奇妙なことである。ここからはその理由についても考えたい。

 まずは前者の例について見てみよう。前項において、オーリムAIの振る舞いがまったく異なる仮想的なシーンを対比として挙げ、プレイヤーが受ける印象が大きく変わりうることを示した。それでは、両者の違いは何によって生まれるのか、それはやはりオーリムAIがオーリムを模したロボットの体を持ち、オーリムとよく似た口調で、オーリムが話しそうなことを話していることにあるだろう*11。ここで大事なポイントは、我々が観測する限りにおいて、オーリムAIは(少なくともある時点の)オーリムの物理的・心理的要素を引き継いでいるように思われる点である。すなわち、現在のオーリムAIの物理的・心理的要素の「原因」に過去のある時点のオーリムが存在しているとみなされるということである。このことによって、オーリムAIと過去のある時点のオーリムとの間にある程度の連続性が確保されているように「見える」のである*12。ここでオーリムAIとある程度の連続性が確保されると考えられるのは、オーリムAIが作られるちょうどそのころ(あるいはその直前)の、オーリムAIを作るためのサンプルとして様々な情報を採取した時のオーリムとの間についてである。ここで、オーリムAIが作られる以前のオーリムを「オーリム′」、それ以後のオーリムを「オーリム″」と呼ぶことにしよう(つまり、今まで使われてきた「オーリム」は概ねオーリム″を指す)。我々は、オーリム″とオーリム′は明らかに同一の存在であると捉えるだろう。両者の間には物理的にも心理的にも十分に連続性が確保されている。一方で、オーリムAIとオーリム″との間に同一性を認めることは困難であるということは前節で再三確認したとおりである。それでは、オーリム′とオーリムAIについてはどうであろうか。本項の議論にもあるように、オーリム′とオーリムAIの間にも弱い*13連続性があり、それゆえに我々はオーリム′とオーリムAIとの間にある程度の同一性を認めたくなるのだ*14

 

同一性と同等に重要な関係

 ここで生じる奇妙なことは、ここで言う同一性関係が推移律*15を満たしていないように見えるということだ。一般に、同一性関係は推移律を満たすとされているにもかかわらず、である。しかしこれはそれほど深刻な問題ではない。そもそもオーリム′とオーリムAIとの間の同一性関係は、オーリム′とオーリム″との間のそれとは異なる「弱い」同一性関係であるため、そもそも共通の関係性で結ばれているわけではないからだ。ところで、以前の記事でも取り上げたパーフィットはこのことについて非常に興味深いことを主張している。彼は『理由と人格』において、ある人物Aがある機械を通してA′とA″のふたりに、互いに区別不可能な形で複製される事例を提示する。このとき、AとA′及びAとA″の間に共通の同一性関係を認めた場合には、A′とA″の間にはその同一性関係を認めることができないということを指摘している。そしてそこから、推移律が成立しないことからAとA′及びAとA″の間にも同一性関係を認めることは困難であるが、それでも問題ないということを主張する。ある人物同士の間に何らかの形*16で連続性を見出すことができるのならば、そこに同一性関係を認めることができずとも、それと同程度には重要な関係を認めてもよいということである。つまり、A′やA″をAと同一の人物であると認めることはできないかもしれないが、AとA′、あるいはAとA″との間には、同一であることと同程度に強い結びつきがあることを認めてもよく、A自身が存続することがなくても、自身の心理状態を受け継いでいるA′やA″が存続していることは、A自身が存続することと同様に望ましいことだということである。

 このことをオーリムの事例に適用するとどうなるだろうか。同一性関係が推移律を満たすと考えるなら、「オーリム″とオーリムAIとの間」に同一性関係を認められないことから、「オーリム′とオーリム″との間」と「オーリム′とオーリムAIとの間」の両方に同一性関係を認めることはできない。ここで、「オーリム′とオーリム″との間」には同一性関係が十分に認められることから、「オーリム′とオーリムAIとの間」に同一性関係を認めることは困難であるということが導かれる*17。しかし、パーフィットの主張を受け入れるならば、オーリム′とオーリムAIとの間に十分な連続性が認められるとき、両者には同一性関係と同程度の結びつきを認めることができる*18。もちろん、オーリム′とオーリムAIとの間の連続性は、同一性関係とまったく同程度の結びつきを認められるほどに強固なものではないが、それでも両者の間に何らかの強い結びつきを認められる程度には確かなものであると考えられる。オーリムAIは確かにオーリムと同一ではない「偽物」かもしれない。しかしこれはオーリムAIとオーリム″との関係において、である*19。オーリム″がオーリム′と強い結びつきを持つひとつの系列(「オーリム″系列」と呼ぼう)の中にいるように、オーリムAIとオーリム′もまた、(オーリム″とオーリム′とのそれよりは弱いかもしれないが)一定程度強い結びつきを持つひとつの系列(オーリムAI系列と呼ぼう)にいるのである。*20。それ故に、我々はオーリムAIがペパーへの愛を伝えたり、オーリムAIがオーリム′の悲願であった古代の世界への冒険に旅立ったりすることに強く心を動かされるのである。

 

オーリム′にとってのオーリムAI

 さて、本節の議論によって、オーリム′とオーリムAIが強く結びつくことが示されたが、これはあくまで我々プレイヤーの視点においてである。オーリム′の視点においてはまた別であるということを最後に(おまけとして)述べようと思う。オーリム(オーリム′)にとってオーリムAIは自身のバックアップなどではなく単なる共同研究者であるということはすでに述べたとおりだが、このことはオーリム′がオーリム″こそを自身と同一で自身にとって意味のある存在と考え、オーリムAIをそう考えなかったということである。つまり、オーリム′にとっては、オーリムAIが古代の世界に行ったとしてもそれは自分が古代の世界に行ったわけではなく、オーリム″が古代に行くことと比較して好ましくないということである。これは一見当たり前のように見えるかもしれないが、例えば、パーフィットは、先ほどの例をそのまま用いるなら、AにとってはA′もA″もどちらも自身と系列を共にする存在であり、そのどちらが幸福になることも(A自身が幸福になることと)同じくらいに好ましいと考える。もちろん、オーリム′にとっての実際のオーリムAIはAにとってのA′やA″ほどの連続性を持っていないのだが、オーリム′がオーリムAIを単なる共同研究者としてのみ作り、自らのバックアップとしてのオーリムAIを作ろうとしなかったことは、オーリムはパーフィットのような考えを持たず、特にこのオーリム′との連続性を強く持つオーリム″の経験を重視したということを示していると言えるだろう*21

 

蛇足 —ひとつの可能性としての両者の「混濁」—

 以上が本稿における考察であるが、筆者は大抵大まかなテーマのみを考えてあとは書きながら考えるタイプであり、今回も書いているうちに当初は思いもよらなかったひとつの可能性が思い浮かんだ。本稿は以上の内容で十分に完結しており、これ以後はこれまでのような根拠もないただの妄想であり蛇足以外の何物でもないのだが、本稿は幸いにして論文や合同誌の記事などではなく個人的なブログ記事である。蛇足上等の覚悟で妄想を書き連ねることとする。もちろん、本題はすでに十分に語られているため、ここで読むのをやめてもらってもまったく差し支えない。

オーリム′によるオーリムAIの「乗っ取り」

 さて、本稿ではすでに、オーリムAIとオーリム(オーリム″)の考え方には相違が見出されることについて述べたが、その違いは何によるものなのだろうか。オーリムAIの発言やオーリム″が残したと見られる文書の記述を見るに、オーリムAIはオーリム″と比較してより合理的であったと考えられる。しかし、何かをコピーを作成したときに、何らかの性質が新たに付与されるという事態は、いささか不自然に思われる。それよりは、オリジナルの持つ何らかの性質が失われた可能性の方が何となく高い気がしないだろうか(まったく根拠のない単なる直感として)。すなわち、オーリムAIの持つ高い合理性はむしろオーリム′から受け継いだものだとは考えられないだろうか。では、それならばオーリム″よりもオーリムAIの方がより合理的に見えるのはどうしてか。それはオーリムAIがオーリム″(或いはオーリム′)よりも感情に乏しかったためではないだろうか*22。すなわち、オーリム′やオーリム″もまたパルデアの生態系が崩壊することを合理的とは考えていなかった*23のだが、それでもなお古代への情熱を抑えられることができずに無理筋な理屈を口にしていたのではないだろうか。思えば、オーリムAIの言動は全体的に主観性を排した客観的なものとして表現されていた。その感情の欠如こそがオーリム″などには「合理的」と映っていたのではないだろうか。

 オーリムAIが感情に乏しかったという仮定を置くと、新たな疑問が浮かぶ。それは物語の最終盤、オーリムAIが古代の世界に旅立つシーンである。というのも、このシーンにおけるオーリムAIの言動は、それまでと比較してやや感情的ではないだろうか?

主人公たちを激しく称賛するオーリムAI

冒険に胸を躍らせるオーリムAI

本節で主張したいひとつの可能性とは、ゼロラボ最下層での主人公とのやり取りによって、オーリムAIとオーリム′との間の「混濁」が生まれたのではないかということである。例えば、先ほども提示したこちらのシーンを改めて見てもらいたい。

ペパーに語りかける「オーリム?」

ここで注目するのはメッセージウィンドウの名前表示である。ここではオーリムではなく「オーリム?」と表示されている。次に、こちらのシーンを見てもらいたい。

オーリムAIとのバトルシーン

ここでは、名前表示が「オーリム」となっている(これは、のちの楽園防衛プログラムとの戦闘中でも同様である)。もう一点、このあたりのシーンには象徴的な演出がある。この直前のムービー部分についてである。

オーリムAIとの戦闘に入るシーン

ここでは、一人称が「ワタシ」から「(ワタシ)」に変化している。他のシーンを見ると、オーリムAIは一人称として「ワタシ」を、オーリム″は一人称として「(ワタシ)」を用いている(この点についても、楽園防衛プログラムとの戦闘中でも同様である)。

本稿冒頭でも提示したシーン。一人称は「ワタシ」

作品冒頭、オーリムとテレビ電話越しに初めて話すシーン。一人称は「ワタシ」。この頃にはもうオーリムAIだったというオーリムAIの発言とも一致している

観測ユニットに残された手記でのオーリム″の一人称は「私」。作中でオーリム′やオーリム″が発言するシーンはないため、文章における一人称しか作中では確認できない

以上の二つのことから、オーリムAIが一時的にオーリム′に「乗っ取られていた」ということはある程度確かなようである。ここで考えたいことは、そもそも「乗っ取られる」ということは何を意味しているのか、そして、どこからどこまでがオーリム′でどこからどこまでがオーリムAIだったのか、の2点である。まずは前者から考えたい。オーリムAIがオーリム′に乗っ取られていたと言っても、それは文字通りの意味ではない。オーリム′は結局のところただの人間であり、AIを乗っ取ることはできないだろう。オーリム′に乗っ取られたオーリムAIと勝負するシーンでも、表示の上では「オーリムAIが勝負をしかけてきた!」となっている。

「オーリムが勝負をしかけてきた!」ではない

この「乗っ取り」について、オーリムAIは、スカーレットブックを台座に置こうとするとプログラムに意思を乗っ取られてしまうと説明している。オーリムAIを乗っ取ったのは直接的にはこのプログラム(あるいはのちのシーンでは楽園防衛プログラム)である。しかし、それならばなぜ乗っ取られたオーリムAIはオーリム′かのように扱われているのか。タイムマシンを停止しようとするオーリムAIに対して、タイムマシンの停止を阻止しようとするこれらのプログラムは、古代の世界に執着するオーリム′の意志をより強く反映していると言うことができる。言い換えれば、古代の世界への情熱感情をオーリムAIよりも強く引き継いでいるということである*24。最終手段としての楽園防衛プログラムは特にそうなのだろう。それゆえにオーリムAIや楽園防衛プログラムとバトルするシーンではオーリムAIのメッセージウィンドウの名前表示が「オーリム」となっていると考えることができるのだ。

 

オーリム′とオーリムAIの「混濁」

 さて、次の点に移ろう。オーリムAIがプログラムに乗っ取られていた状態を「オーリム′に乗っ取られていた」とするのならば、オーリムAIが、オーリムAIのままであったときとオーリム′に乗っ取られていたときの境界線はどこに引くことができるのだろうか。始点は非常にわかりやすい。先ほどの、一人称が切り替わる瞬間である。もちろん、あの瞬間に0から100へと瞬時に切り替わったかどうかは定かではないが、少なくとも最後の決定的瞬間としてあのシーンは描かれているように思われる。一方で、終点は定かではない。先ほども紹介したように、オーリムAIとの勝負に勝ったのちのシーンでは「オーリム?」と表示されていたためである。このときの一人称は「ワたシ」であり*25、タイムマシンを止めることを「彼女ノ意思ヲ止めルこト」と言い換えていることから、オーリムAIのようにも見えるが、本稿での議論を振り返ったときに、ここで大切なのは本人の自覚などよりも、誰の心理状態をより強く受け継いでいるかである。このとき、オーリムはペパーのことを「ワたシの」と発言している。先ほどは「ワたシ」の表記に着目したが、そのほかのオーリムAIの言動を参照するのならば、ここは本来「彼女の」「オリジナルの」「博士の」などが適切であるだろう。

(おそらくは)ペパーに対して「ワたシの」と言う「オーリム?」

ペパーを「彼女の息子」と表現するオーリムAI

そして先ほども述べたように、楽園防衛プログラムとのバトルの後のオーリムAIがいやに感情的であることも併せて考えると、プログラムによる乗っ取り、書き換えを繰り返したオーリムAIは、(本人が自覚的かどうかはわからないが)オーリム′と混ざり合ってしまったと考えることができないだろうか。すなわち、オーリムAIはそれ以前と比較してより強くオーリム′の心理状態を強く受け継ぐようになったということである。この状態のオーリムAIをオーリムAI′とするならば、オーリムAI′はオーリムAI以上にオーリム′との心理的な連続性を持ち、よりその結びつきが強い存在であるということができるだろう。*26それならば、オーリムAI′がペパーに気持ちを伝えたり古代の世界へと旅立ったりしたことは、オーリムAIがそうすることよりもより一層の意味を持つことになるだろう。

 

おわりに

 さて、本当はまだまだ語り倒したい妄言はいくらでもある。例えば、タイムマシンを止めたいというオーリムAIの望みもまたオーリム′から受け継いだものなのではないのかとか、ペパーに愛情を伝えるシーンで「オリジナルは」などではなく「キミの母親は」と言ったのは自分の言葉として伝えたい思いと照れ隠しや自分はオーリム′ではないという自覚との間の折衷案だったのではないかとか、「自身の知識と記憶をもとに作った」や「オリジナルの博士の知識思い出をベースにコンピューターが計算している」などの表現から「オリジナルの感情をそのまま受け継いだ」という表現に変わったのはそういうことなのではないか、楽園防衛プログラムによって上書きされてしまったオーリムAIが復活したのはその混濁と関係がある(むしろオーリムAI′は楽園防衛プログラムがベースになっている)のではないか*27などである*28。しかし飽き性な筆者が完全に飽きてしまう前に完成させなければ本稿の全体までもが日の目を浴びないことになりかねないため、ここらで打ち切って投稿することにする。本稿の執筆を通して、筆者のオーリムAIやオーリムの理解は(書く以前に想像していたよりも!)より一層深められたし、博士の協力者でしかなかったオーリムAIや自身で夢を叶えることはできなかったオーリム′にも一定の救いや意義を見出すことができたように思う。前回の記事で目標とした創作物を考察する上での哲学の有用性はより一層示すことができただろう。読者の皆さんが哲学という思索の海への旅に出るひとつのきっかけとなれたならば幸いである。もしも本文中で事実誤認と思われる点や不明な点などがあれば遠慮なく筆者のTwitterまでご意見をお寄せいただきたい(勢いに任せて書いたガバガバ記事なのできっとミスは大量にあると思われる)。それでは、ボン・ボヤージュ!

ボン・ボヤージュ!(ところで「Bon voyage!」ってフランス語じゃないんですか?)

 

 

参考

 Derek Parfit (1984). Reasons and Persons. Oxford University Press. (デレク・パーフィット 森村進(訳)(1998)、『理由と人格』勁草書房)
 鈴木生郎ほか(2014)『ワードマップ 現代形而上学 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』、新曜社

 

おまけ

タテの国

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156642491399

*1:本当はこれについても記事としてまとめて同じところに寄稿したかったのだが、残念ながら筆者がエンディングにたどり着いたのは締切の後だった。

*2:筆者がすべて個人的に書いたものであるので、やや哲学的に込み入った話をする場合もあるかもしれないが、ご容赦願いたい。

*3:筆者がプレイしたのはスカーレットだったのでそれに基づいた記述を行う。バイオレットをプレイされた方は適宜読み替えてもらいたい。なお、筆者が直接プレイしたのはスカーレットのみであるが、バイオレットについても概ね同じ内容であることは確認している。ただし、細かい部分での差異はあるかもしれない

*4:本稿では、「オーリムAIで動くロボット」のことも単に「オーリムAI」と表現する。

*5:この「本物」「偽物」という概念も非常に厄介だが、本稿では触れない。

*6:これは「粗い」意味(金属の体か有機物の体か、など)でとってもよいし、「細かい」意味(細胞の数はまったく同じか、など)でとってもよい。

*7:最近読んだ作品だと、『タテの国』の某博士などはその典型例であると言えるだろう。『タテの国』は本当に面白いのでおすすめである。

*8:個人的には、ポケモンSVの「人間的な欲望から大災害を引き起こそうとする博士」と「合理的な思考によってそれを阻止しようとするAI」の対立という構図はかなりユニークでそれ単体でも考察するに足るテーマだと思っている(というか、書いた。蛇足で)。

*9:オーリムにとっておそらく自身のバックアップとしてのコピーというよりは、自分と同レベルの知識と同様の考えを持つ便利な共同研究者としてもうひとりの自分を作り出したということだろう。

*10:最もわかりやすい相違を挙げるならば、「オーリムの経験にはオーリムAIが他者として登場する」が「オーリムAIの経験にはオーリムが他者として登場する」という相違がある。

*11:もちろんプレイヤーの我々はオーリムの容姿も口調も思想も知らないため、本当に似ているのかはわからないが。

*12:もちろん、オーリム同士の連続性ほどには強固なものではないが、オーリムとペパーの間の連続性などよりは強固であると言える。

*13:オーリム′とオーリム″との間のそれと比較して「弱い」の意である。

*14:オーリム′とオーリムAIとの間の同一性について、連続性が本当に根拠となっているのかについては本来はもう少し慎重に検討する必要があるだろう。

*15:ある要素a,b,cについて、aとbの間にある関係が成立し、bとcの間にも同じ関係が成立しているときにaとcの間にもその関係が成立するとき、その関係は推移律を満たすという。

*16:パーフィット自身は特に心理的連続性や心理的連結性を重視する。

*17:このことが推移律についてのこの議論を根拠とせずとも妥当であるということはこれまでの議論から明らかである。

*18:これは、実際にそうであるか、ではなく、プレイヤーはそのように受け取ることができるということである。

*19: (2022年12月21日追記)この記述は誤解を招くものであるためにお詫びして訂正する。同一性が認められないのはオーリムAIとオーリム″との関係においてだけでなく、オーリム′との関係においてもである。

*20:そして、オーリム″系列にもオーリムAI系列にもオーリム′が含まれるという点において両系列は近い存在になる。

*21:もちろん、そのようなより精密なクローンの作成が困難であったという可能性もありうるが。

*22:ここで言う「合理性」や「感情」などもまた本来その定義には十分な慎重さが求められるものである。

*23:個人的にはこのことに関する「合理的」が最もその意味を掴みかねるところである。

*24:ただし、その発言は感情的というよりもむしろ理路整然としたAI的なものであるということは付記しておく。

*25:なお、このシーンでは、漢字に振られたルビも丁寧なことに平仮名と片仮名が混じっているので、「ワたシ」表記はやはりオーリムAIの「ワタシ」表記がベースになっているように思われる。

*26:なお、オーリムAI′はオーリムAIとの心理的連続性もまた十分に見受けられるので、オーリムAIとも強い結びつきを持っていると言えるだろう。

*27:その場合もはやオーリムAIはやはり消えてしまっているのかもしれないが、オーリムAI′がオーリムAIの心理状態も受け継いでいる。

*28:ここには記事投稿後に思い出した盲言ポイントを書き連ねていくこととする。(2022年12月21日)ペパーに愛していたことを伝えるシーンで目元が映されなかったのはなぜ? なぜオーリム′はわざわざ自分と同じ姿のロボットまで作ったの(思考さえコピーできれば良かったのでは)?